直きこと、その内に在り

ある人が孔子にこう言いました。“うっとこには、むっちゃ正直者がおるで。親父が他人の羊を盗んだら、正直に役所にうちの親父が人の羊を盗みましたって届け出てん。真面目やろ”。すると孔子はこう答えます。“確かに真面目やなあ。しゃあけど僕はこない聞いてるで。親は子のためにもってし、子は親も為にもってす、って。直きことってそんな中にあるんちゃうかなあ”。どういうことかと言うと、親は子供のために、役所に届け出ることはしないだろう、子供は親のために役所に届けることは絶対しない。そういう内に正しい心が発生するんちゃうかなあ、って内容です。もちろん、その言外には十分な躾と相手を良化させるための努力が必要であることは言うまでもありません。厳しくお互いを節しなくてはなりませんが、それを実践したうえで、直き心を持たなくてはならないという戒めだと思います。決してなあなあではなく。

なぜ、こんなことを思ったかというと、前回の内容で、僕は後医だからと書いたことなんです。いつでも後医は名医なんですね。じゃあ、後医が見逃していた疾患を見つけて、見逃しや、っと患者に伝えることは、むっちゃ正直者、若干の優越感もあり、です。一方、全く見逃しの事実を伝えずに(場合によっては、前医で発見できていれば転帰が変わっていた可能性もある場合)病状のみを伝えて治療した場合、果たして、孔子の言う“直きこと”なんでしょうか?仲間内でかばっている、いやいや有りうることだ、どっちでしょう。僕の場合なら、やはり僕の初診時の状態を勘案して欲しいし、あまり煽情的な表現を取っては欲しくないです、正直言って。僕たち医者は常に患者に対しては良かれと思って治療を施行しているわけですから、その一事を持って万事と思われるのはつらいなあ。でもその事象を教えてもらわないと、また繰り返す可能性もある、反省もしたい。どないしたらいいんでしょうね。

あの、業務上過失傷害とか過失致死とかいう表現、あれ、こたえますね。いっつも思います。どっかでturning point無かったんかなあって。人の振り見て我が振り直せ、とはよく聞きますが、ミスはしたくない、ミスは必ず出る。ではミスをなくすように努力したら、“直きこと”なんでしょうかねえ?とりあえずは、日々謙虚に過ごそうかな。ねえ、矛盾しますよねえ、“直きこと”。

うん、腹減ってきたから、よってってに行ってモンブラン買い食いします。また後で考えよ。